先輩を訪ねて

Persons



現在はどのようなことをされていますでしょうか

大学を卒業後は、ヘルス&ビューティの企業で化粧品の研究職として働き、香りと脳波、メイクアップ効果、温泉と肌の老化などのテーマに取り組みました。
その後、商品開発、マーケティングを経て、現在は人事部門で人財の開発、次世代リーダー育成、キャリア自律支援など、人づくりと、仕組みづくりを担っています。

現在の活動(研究も含め)はどのようなきっかけで始められたのでしょうか

商品開発の神様と呼ばれた上司から「モノづくりの哲学」を叩き込まれ、私も会社を支えるヒットメーカーの自負を持っていました。しかし本当に必要なのは、特定の人が時々つくる商品ではなく、継続して新しいアイデアが生まれてくるプロセスや文化が企業に築かれることだと考えるようになりました。
きっかけはアメリカ同時多発テロ後、IDEO社の「デザイン思考プロセス」が一気に広がったアメリカのモノづくりに脅威を感じたことにあります。

Stockholm MAKE UP SHOWにて(2006年)
化粧品の環境取り組みの視察でスウェーデン、デンマークに行った際の一枚

ニューヨークのグラウンドゼロ(2007年)
同時多発テロ後、アメリカのモノづくりは「合理性・商業性」から「人を想い続ける」価値観に変わっていきました(NYグラウンドゼロ近くのビルより撮影)

大阪大学理学研究科時代に、心がけていたこと・大切にしていたことは何ですか

『ETWAS NEUES(私にとって新しい発見)』を心がけ大切にしていました。ダンディでシニカルな恩師の松原央教授がおっしゃっていた言葉です。今も松原研同窓会で語り継がれています。
いいも悪いも好きなことを好きなように。やらずに後悔するよりもやっての後悔。失敗は成功の早道。それらがすべて「わたしにとっての新しい発見」につながる、そんな思いで学生時代を過ごしたように思います。

大阪大学理学研究科・理学部時代に印象的なエピソードがあればお教えください

入学後、学業よりも応援団ばかりの生活で1年留年しましたが、第一希望の松原研に入ることができました。
研究生活の思い出の多くは松原研の談話室での国内外の来訪の方々とブレインストーミングのように飛び交う興味深い会話でした。試行錯誤と壁打ちが自然に行われていたように思います。
就職を前に「男も化粧する時代が来ます」とうそぶいたことに、否定もされず「すごい」と素直に感動された先生のその気にさせる「言葉」も思い出です。

これからの大阪大学理学研究科・理学部について、提言等ありましたらお教えください

何のために研究者になったのか。どういう研究者になりたいのか。「対話する」文化が大切な原点になるのではないでしょうか(緒方洪庵:談論風発の気風)。
不確かなVUCAが拡大していますから、引き出しを一杯持っていなければ、未来をつくることができません。
2024年世界ランキングで日本の大学は100位以内にわずか2校。世界の一流になるためには、世界基準に従うのではなく、「阪大理学部が理想とする基準」を創ることかもしれません。

今後やってみたいことはどのようなことでしょうか

これまで、「競争」の世界で企業人としての自己実現を目指してきました。
これからは、競争ではなく「共創、共存、創造」や、結果ではなく関係性やプロセスにフォーカスすることに、これまでの学びや経験を活かしていきたいと思います。
地方創生、中小企業支援、若い世代のサポート、well-beingを。

理学友倶楽部の部員にメッセージをいただけますでしょうか

私が学生時代に所属した大阪大学応援団(1962創設)は、初代顧問が理学部長でのちの総長、正田建次郎先生でした。理学部出身の先輩後輩も29名(~2023)おり、民、官、学の道に進まれています。
多様な選択肢の中で、世代を超えたつながりと、その先にある価値の創出に理学友倶楽部がプラットフォームとなり、そして部員の皆様が、「今、ここ」を大切に、アップグレードされますことを祈念いたします。

最後にひとこと

最近、私の会社で人気の研修の一つが「発想力強化」です。モノと情報がフラット化したこの時代をリードしていくには、才能ではなく、得たい結果を得るための行動の選択、方法論を身に着ける「知のトレーニング」の必要性を痛感しています。

経歴

1985年

大阪大学理学部生物学科卒業

同年

鐘紡株式会社化粧品研究所入社

1995年

商品開発部転籍
商品開発部長 マーケティング部長 人事労務部長
※この間、鐘紡の上場廃止(2005)によりクラシエに社名変更

2023年10月04日 掲載