創設期の生物学科 — 思い出すままに

創設期の生物学科
— 思い出すままに

はじめに

 阪大理学部が創設されたのは1931年で、発足時の学科は数学、物理、化学であった。一方、生物学科は18年後の1949年に発足した。理学部が産業界、財界の強い要望の下にできたのと異なり、生物学科の設立は赤堀四郎教授の将来を見通した強い信念のもとに作られたように思われる。先生は生物学の新しい動向にいち早く注目し、物理化学に基礎を置く生物学の振興を図るため、そのための学科新設を目指したのである。そして阪大理学部にはこのような生物学の基礎となる物理・化学の優れた研究室が存在した。
 このような背景の下、理学部長の赤堀先生は精力的に文部省に働きかけられ、遂に1949年5月31日、理学部に2講座からなる生物学科が誕生した。翌日の6月1日、旧制一期生19名の入学式が中之島の理学部3階の階段教室で行われた。学科主任の赤堀教授は「本学部の生物学科では、生命現象の解析に重点を置き、これまでにない新しい生物学の研究と教育をおこなう」と宣言された。 (吉沢 透 「創設期の生物学教室」Biologia No.1, 2004)

創設期の教授陣

 生物学科創設の主役を演じた赤堀先生は当時日本の生物学界でトップクラスの独創的研究者を教授に迎えるのに腐心された。そのため東大の田宮 博教授、京大の芦田譲治教授に相談されたと聞いている。そして東大出身者から奥貫一男と神谷宣郎を、京大出身者からは本城市次郎と吉川秀男を教授に迎えることができた。まことに、阪大創設時の初代総長 長岡半太郎の「勿嘗糟粕」精神を実現した人事といえよう。
 1949年赴任の奥貫教授は東大1年先輩の薬師寺英次郎とともに1940年、呼吸酵素チトクロムc1を発見した。c1は細胞呼吸の電子伝達に関与する膜複合体の一成分で、この発見は電子伝達機構の分子レベルでの解明の基礎となる画期的な発見であった。神谷教授は1939-1942年の滞米中に、独自に考案した複室法を使って、複雑な動きを示す粘菌の原形質流動の原動力を世界で初めて測定し、その成果は1940年Science誌に発表された。神谷の研究は白衣姿の写真と共にTIME誌 に取り上げられ、一躍有名となった。本城教授は動物の感覚生理学、行動生理学では独自の方法を編み出した先駆者であった。1938年、弱冠30歳で『動物の感覚生活』と題する160ページにも及ぶ単行本をあらわしたのは、学問の先駆性と才能の異常さを物語っている。医学部の遺伝学教授で理学部兼任の吉川教授は1941年カイコの色素の発現における突然変異の研究から、生体内の代謝過程に働く多くの酵素は、対応した遺伝子によって支配されているという画期的な仮説one gene-one enzyme説を提唱した。同じ説は1941年アメリカのBeadle, Tatumらが赤パンカビの栄養要求性突然変異体の研究から唱え、彼らは1968年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。吉川も当然賞の候補に挙がったという。

(写真1)旧制2期生の卒業30周年記念クラス会、1983年7月30日、待兼山会館。
恩師:前列向かって左から吉川秀男先生、奥貫一男先生、神谷宣郎先生。先生方は70歳代。本城市次郎先生は定年退職の翌年1974年にご逝去された。
二期生:左から深見、黒田、塚本、森、桐谷、田澤、木住、荻田、大町、中山

教授プロフィール

赤堀 四郎先生
 生物学科の生みの親である赤堀先生は、招聘した先生方に対し親身になってお世話をされた。1951年、赤堀先生のお世話で、神谷教授一家は芦屋に独立家屋を借りて住むことができるようになった。その年の7月、暑い盛りに美恵子夫人は二人の幼児(長男 律さん5歳と次男 徹さん3歳)を連れて、東京からの長時間の汽車旅行に疲れ果てて大阪駅に着いた。芦屋の宅に着いてみると、赤堀先生の奥様が見えられ、いろいろ手作りの料理とか冷たい飲み物を用意して遠路の旅をねぎらってくださったという。神谷夫人は痛く恐縮すると同時に、一行は炎天下に甘露を得た心地がしたという。
 写真2は先生自筆の色紙で〈雪埋梅花 不能埋香〉は、1921年千葉医学専門学校薬学科卒業時に同級の中国の友人 帳徳周君が惜別の記念に色紙に書いてくれた言葉だという。先生は「私の好きな言葉です」とおっしゃり、「それは、わずかな現象の片鱗をたどって、未知の真理をたずねる科学者の心に通ずるものがあります」と心境を語っておられる。
 先生の有機化学の講義は、最前列でないと聞き取れないほど声が低かった。ノートをとるのに大変苦労をした。あるとき先生は教壇で黒板に向かってしばし無言の後、「今日はやめた」とさっさと研究室へ帰られた。みんなあっけにとられた。後に教員の方から、“昨日の飲みすぎ“と聞いて納得?(新制1期 松原 央 生物同窓会誌Biologia No.9, 2012)

奥貫 一男先生
 奥貫先生の名言録の一つ:「悪戯をしてごらん」(松原 央 同上)奥貫研の出身者は「パスツール会」という会を作っており、会誌『PASTEUR』をほぼ毎年発行してきた。1952年の1号に始まり18号まである。18号(1969)には「奥貫先生の文集」が載っている。p.49にある会誌9号からの文を引用する。「研究室は研究が第一義のところである。自然科学の研究に身をゆだねた人々の切磋琢磨するところであるが、個人の研究にとどまるところではない。人類の未知を自家薬籠のものにして惜しみなく他にあたえ人類の福祉に貢献するところである」「滾々と湧き出る泉の水のように独自の流れを押しひろげてやまず、洋々たる大河の流れとなる仕事こそresearchというにふさわしい研究である」
 先生は時間に厳しかった。同級の桐谷和文君によると「先生の1年生への講義は、朝一限目だったが、先生は、学生が2~3人であってもきっちり定刻8時に授業を始められた。時間に遅れた級友の慌てて教室に駆け込む姿がまぶたに残っている」という。その先生もお酒が入ると、途端にお顔の筋肉が緩み実に楽しそうだった。そしてよく笑われた。これも桐谷君の話:生物学科全員で奈良にバス旅行をした時、先生は奥さんを同行されました。大阪駅前でバスに乗る直前、奥さんは、「主人の水筒に何が入っていると思います? - お茶ではないのですよ、お酒!」お酒といえば、教室主催のパーティでは“貫正宗”と称して、奥貫研特製のお酒?が供された。アルコールを酵母のカラムに通したもので、酵母の匂いが籠っていて、合成酒とは思えない味わいがあった。

神谷 宣郎先生
 神谷先生は研究材料となる生物の特性を生かした実験方法を考案することにおいて天才的な能力を発揮された。工作に必要な素材(がらくた)を入れた箱を「宝箱」と称しておられた。ご自身、忙しい時間の合間を利用して、測定装置を製作された。そのため研究室には生物系には珍しく、狭いながらも工作室が設けられていた。1970年代のことだが、ものづくりの器用な院生 菊山君(1976年博士)が工作室で作業していると、先生がのぞきに来られ、「君、凝りすぎだよ!」と一言。推測:先生自身が工作したくても時間的制約のためできなくてフラストレイトしていた上での発言では?「君、凝りすぎだよ!」は研究室の流行語となった。先生は講義ノートを作られなかった。メモ程度のものをもって講義に行かれた。したがって次のようなエピソードも生まれる。新制2期生の上坪君が「先生の講義は教養、学部、大学院と同じだった」となじるように言うと、先生平然と「君、いいものは何べん聞いてもいいもんだよ」

本城 市次郎先生
 本城先生は1973年に定年退官された。そのとき、本城研の関係者は『みづすまし』と題する立派な退官記念誌を作った。そこに「本城先生名語録」が載っている。2,3を引用させてもらう。
 「せんでもええ実験をするのは、せんならん実験をせんよりもなお悪い」「頭に論文を描きながら実験を進めていくべきで、データーを眺めて、さあイントロダクションをどう書こうなどというのはもってのほか」「私は無色透明になる」― お前達で決断を下せということと思うが、計り知れぬ悟りの境地か?「私は10年、20年先を考えて行動しているのだが、他人は私の考え方をなかなか理解してくれない」― 申し訳ありません。

吉川 秀男先生
 旧制2期生で吉川研出身の桐谷君の回想:吉川先生は、音楽が好きで、朝日会館での音楽会に、何度もご一緒致しました。 また、作曲を試み?“おなら”の歌、「プープーソング」を遺伝学教室の全員にマンドリン伴奏で披露し、喜んでおられました。

(写真2)赤堀先生自筆の色紙。米寿のお祝いにたいする返礼として筆をとられた。
(池中徳治「大阪大学歴代総長余芳 第7代総長赤堀四郎」より)

先生と学生の交歓:一期生卒業記念会

 1952年春、生物学科1期生の卒業記念会が理学部(中之島)地下の実習室で行われた。教職員、学生全員が参加した。会は5名の教授の挨拶で始まった。先生方には予め“専門分野の演題”が与えられていた。例えば、赤堀先生(有機化学)には、「パチンコの右旋性と左旋性」、神谷先生(細胞生理学)には、「粘菌の恋愛」だった。赤堀先生は、‘パチンコは左旋性だよ’と決めつけられて話を進められた。 神谷先生は、“2種類の粘菌変形体をスライド上に離して置き、顕微鏡下で観察していると、すぐに細胞融合する「相思相愛型」と、片方の細胞のみが伸びてゆく「片思い型」に分類できる”と話されて一同の笑いを誘った。 
 新制1期生の諸君は、実習材料の動物たちの‘嘆き’を材料に面白い放送劇を演じた。われわれ旧制2期生は、桐谷君の発案で混声合唱を企画した。曲はベートーベンの第九にある「歓喜の歌」が選ばれた。合唱指導は奥貫研の大学院生だった小幡 寛さんが引き受けてくれた。問題は女性である。何しろクラスの女性は黒田清子さん一人である。そこで桐谷君は各研究室の女性教員、職員にお願いして合唱に加わってもらった。即席の混成合唱団は昼休みを利用して練習に励んだ。当日皆から”よくも集めたもんだ“とあきれられた。演技の後の懇親会だが、戦後の貧しい時代とて、テーブルには寿屋(現サントリー)寄付のトリスウイスキーとわずかな“おつまみ”が並べられているだけだったが、教室員一同、時の経つのを忘れて歓談を楽しんだ。

おわりに

 生物学科は2017年までに学部卒業1364名、修士修了1804名、博士修了940名を輩出している。1952年に最初の卒業生13名を送り出したことを思えば隔世の感がある。生物の同窓会はBiologia と称する同窓会誌を2003年より年刊で発行している。其の第1号に初代会長で旧制1期生の吉沢 透氏が「創設期の生物学教室」と題する一文をよせている。そこには創設期の教室の動向が詳しく報ぜられている。それとの重複を避けるため、本稿では、創設期の先生方の人物像を浮かび上がらすため、エピソード的なものを載せることにした。旧制2期の同級生 桐谷和文君はいろいろ当時の思い出話を提供してくれた。1967年卒の長田洋子さんからは「パスツール会」の情報をいただいた。お二人に感謝申し上げます。

阪大理生物同窓会の同窓会誌Biologia は、ホームページからPDFファイルをダウンロードできます。
阪大理生物同窓会ホームページ

筆記者 情報

東京大学 名誉教授

田澤 仁

TAZAWA Masashi

■経歴

1953

大阪大学理学部 卒業

1955

大阪大学理学部 助手

1968

大阪大学理学部 助教授

1977

東京大学理学部 教授

1990

東京大学 退職

1990

福井工業大学 教授

2002

福井工業大学 退職

■受賞歴

1990

日本学士院賞

2017年12月4日 掲載