大阪帝国大学創設と初代長岡総長の精神
大阪帝国大学創設と
初代長岡総長の精神
はじめに
「ひとのやらないことをやろう」「間違ってもひと真似をすることはやめよう」 大阪大学で学んだ杉本健三先生の精神でした。その後、東大に転職し、さらにKEK(大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構)などで全国各大学の学生・教員に接触するうちに、この精神は特に阪大理学部卒業者によく浸透しているように感じられました。それから十数年の或る日、理学部大講義室に掲げられている長岡先生の揮毫 『勿嘗糟粕』 を拝見する機会を得ました。古人が味わった美酒をしぼった「糟粕」を嘗むる勿れという先生のお言葉は 「古人が残した業績を真似ることはやめ、常に創造的であれ」と理解されます。これこそが初期の阪大教授に伝わる精神的規範であると感じました。
本稿では長岡半太郎先生が遺された精神をお伝えしたいと考えます。昔のことについて伝聞による知識を記すばかりですが、「長岡半太郎伝」(板倉聖宣ほか)の抜粋を紹介し、「長岡精神」の紹介を記させていただきます。
長岡半太郎先生
昭和の初期、日本も世界恐慌の中にありました。大阪の産業界は、この経済恐慌からいち早く立ち直りました。主に綿紡績を中心とする産業界の力による結果でした。その機に大阪にも帝国大学をという気運が高まり、大阪の財界・産業界に知事や市長が加わり大阪大学設立運動が始まりました。
初代総長の選任に関して地元と文部省の間で意見が分かれましたが、紆余曲折の後、1931年(昭和6年)に大阪帝国大学が創設され初代総長に長岡半太郎先生が着任されました。長岡先生は、初め総長就任の要請に対し否定的でした。優れた研究者としての道を捨て大学管理者になってしまうことに抵抗されたそうです。
先生は、世界で初めて原子核の存在を示唆する「土星型原子モデル」を提唱されたことはよく知られています。そればかりでなく、磁気歪の研究に始まり、地球物理学、分光学、水銀還金実験など多彩に研究を展開されました。科学研究に対する強い意欲から総長就任を拒まれました。当時の田中文部大臣の重なる説得にもなかなか応じられなかったそうです。
しかし、長岡先生は、ひとたび総長就任を受諾されると新設の大阪帝国大学の「入魂」にご自身の信念をかけて全力投入されました。
長岡半太郎先生
土星型原子モデル
新大学の構想
1931年5月に大阪帝国大学が創立され、長岡先生は総長に就任されました。新設の大学について、だれもが最初に気づくことは医学部と理学部から成る大学として発足し、文科系はもとより工学部も入っていなかったことです。 商工業の中心である大阪では考えられないことです。大阪人は勘定高いという一般的評判に反しています。大阪財界・実業界の人々は「工業は単に外国の模倣に汲々として、独創的研究者から進歩したものはまれである。大阪では即座に役に立つ人間を養成するに汲々としていたから一層研究心に乏しい。その欠陥を理学の側から補充していきたい」と長岡先生に訴えたということです。大阪大学設立運動は母体として大阪医科大学とその管理下にある塩見理化学研究所をそれぞれ医学部と理学部にと考えていました。対応する工学部としては大阪工業大学が考えられますが、上記の工業についての考えは同大学の教育方針に対する批判が含まれていたようです。
長岡先生はこの財界・実業界の考えを採用されませんでした。そして、批判を超えて、もっと広い視点に立ち理学の研究成果を産業に活かすには工学研究が大切である、阪大理学部の特色として理工の間に位する学科に重点をおくことにより新設の大学の特徴にしたいと考えられました。結局、工学部は2年遅れて 1933年に大阪工業大学を合併して発足しました。
この件は、わが国の学術体制をリードされた長岡先生の大学観をよく反映しているということからも注目されます。
理学部 中之島
大阪工業大学
「勿嘗糟粕」
医学・理学・工学の3学部を揃えた1933年春、長岡先生は新入生に向かって大学教育の骨子について訓示し「世が駸々と変化に変化を重ねて行くのは、単に古人の糟粕ばかりに頼っていず、各自その意見を発揚していくから文化が進歩する」と述べられたそうです。古人が味わった美酒をしぼった「糟粕」を嘗むる勿れという先生のお言葉は教授から学生まで大学で研究と教育に携わる大学人に訴える先生の「古人が残した業績を真似ることはやめ常に創造的であれ」というお言葉であると理解されます。
先生は大学教育の在り方は、小中学校とは異なるというお考えでした。書道、茶道、華道から歌舞音曲の道まで、いろいろな教育の機会では、いずれも先ずその道の作法や技を真似て習得させる教育の手法であります。先ずは真似るという教育手法は大切であり、小中学校における教育の基本です。大学の教育はその逆に、人真似はやめて自力を活かし創造力の育成をめざすべきです。
長岡先生が遺された揮毫についてはいろいろな解釈がなされていますが、新設の大阪帝国大学総長に就任された先生が阪大の学風として描かれた期待の言葉であると理解されます。
新設大学の陣容
1934年、長岡先生は大阪大学総長の職を依願辞職され、後任の第2代総長楠本長三郎先生に新設大学を託されました。1931年からの就任期間は僅か3年間でしたが、その間に先生が新設の大学に築き上げられたことには偉大なものがあります。とりわけ重要なことは阪大理学部を導く先生方の人事です。理学部長に真島利行先生(後に第3代総長)、物理教室主任に八木秀次先生(第4代総長)が就任されました。
真島先生は天然有機物、例えば漆、樟脳などの研究で化学に新風を導かれました。
一方、八木先生はアンテナの発明で有名な方です。
理学部各教室の教授陣にも東大・理研・東北大などから俊秀を集められました。
(数学)清水辰次郎・正田建次郎、(物理学)八木秀次・岡谷辰治・浅田常三郎・菊池正士、(化学)真島利行・小竹無二雄・仁田勇・千谷利三の諸先生です。眩いばかりのお名前が並ぶ陣容ができたのも、長岡先生の学界における強い指導力と高い人望に基づくことでしょう。
二代総長 楠本 長三郎
三代総長 真島 利行
四代総長 八木 秀次
長岡先生と湯川先生
優れた教授陣の人事と並列して特記されるべきは湯川秀樹先生を迎えられた長岡先生の慧眼です。湯川先生の実父・小川琢治先生は地質学者で地質学にも造詣の深い長岡先生の親しい友人であり両家の交流もありました。長岡先生は小川宅を訪ねた機会に若い湯川先生の聡明さに魅かれ阪大の講師に迎えられました。
湯川先生は長岡総長の阪大で有名な中間子論を築きあげ、1934年に発表されました。その評価が確定してノーベル賞を受けられるまで年月を要し、1949年に受賞が決まったとき、日本中の国民が日本初の受賞を喜びましたが、長岡先生のお喜びは最高でした。その直後に行われた受賞記念講演会における長岡先生のお喜びの言葉を以下に紹介して本稿のまとめとさせて頂きます。
「科学技術の進歩を啓発したのは、ほとんどすべてが白色人の手腕によってなされたのであります。もちろん日本人も手伝いはいたしましたが、わずかに九牛の一毛に及びませぬ。それゆえ彼らは、日本人は真似をすることが上手だから、沐猴冠者であると誹謗を浴びせています。この汚辱は一刻も早く雪ぎ去らねばなりませぬ。幸い今回湯川博士はノーべル賞を受け、初めて原子核構造を探見した元祖として盛名世界に赫々として伝わっています。(中略)
私が受賞を祝するのは、従前の辱しめを一掃する時期の近寄りたるを待つからであります。徒らに盃をあげて歓声を発するようなふつうの祝言ではありませぬ。」
1949年 ノーベル物理学賞受賞
湯川 秀樹
筆記者 情報
高エネルギー物理学研究所名誉教授、大阪大学理学研究科招へい研究員、京都府立医大特任教授
中井 浩二
NAKAI Kozi
■経歴
1957
大阪大学理学部卒
1957-1961
日本原子力研究所・研究員
1961-1970
大阪大学理学部・助手
1965
理学博士(大阪大学)
1969-1970
LBL(米:UC)・ NBI(デンマーク)・研究員
1970-1984
東京大学理学部・助教授
1974-1974
New York州立大学 (米)・客員教授
1984-1994
高エネルギー物理学研究所・教授
1986-1994
研究主幹(PS実験企画調整室長)
1991-1994
文部省・科学官(併任)
1994-
高エネルギー物理学研究所・名誉教授
1994-2004
東京理科大学・教授
2004-2006
東京理科大学嘱託教授(非常勤)
2007-
大阪大学理学研究科招へい研究員 RCNP協力研究員
2007-
京都府立医科大学・特任教授
2017年5月18日 掲載