理学部ができたころ-伝え聞き
理学部ができたころ
-伝え聞き
はじめに
この4月で法人化後丸13年、環境の大きな変化が理学部にも押し寄せていることを聞く機会が多くなった。その法人化直前の2004年3月に最後のいわゆる定年「退官」者の一人として理学部を後にした私は、在職中研究以外にも多忙な時期はもちろんあったが、概ね環境にも人にも恵まれて、その理学部で研究者人生を送れたことを感謝している。
理学友倶楽部に「理学部を語る」のタイトルで寄稿する機会をいただいて「何を書こうか」といろいろ考えたが、自身の現役時代のことよりも、もっと古い理学部創設の頃のことなどをわかる範囲で紹介しておこうと考えるに至った。私は大阪・中之島にあった古い理学部の建物で学生時代を過ごし、少しはその雰囲気に込められていた先人の心意気を感じたこともあったし、阪大創設にかかわった楠本長三郎がたまたま私の祖父であって、身内やいろいろな方から話を聞く機会もあったので、そのような内容も加味できればと思っている。
中之島にあった大阪帝国大学理学部
大阪と自然科学
この見出しは金森順次郎の同名の書(高等研選書15)から借用したものである。その中で氏は、大阪人は江戸時代から開明的であり大阪には早くから自然科学を受け入れる合理的な考えの素地があったこと、それが理学部創設を伴う大阪帝国大学設立実現の背景にあったことなどをわかりやすく述べておられる。その内容も含めるとおよそ以下のようであろうか。
江戸時代の大阪は堂島の米問屋をはじめ日本の商業の中心として栄えたが、次第に各種の産業も起こり、それらに従事する人たちの中に合理的な考え方が生まれていたらしい。大阪と近代科学と言えば誰もが阪大の一つの源流とされる緒方洪庵の適塾を思い浮かべる。そこで行われた西洋医学の教育から、その基礎にある自然科学の知識も広まったはずであるが、それと並んで同じく阪大のもう一つの源流とされる懐徳堂の存在も大きな影響を与えた。懐徳堂は完全に町人(すなわち民間)の力で設立運営された学校で、子弟に日常生活の道徳を教えることが当初の目的であったが、「書生の交わりは貴賤貧富を論ぜず」として学問に対しては武士・町人などの身分の違いは関係ないという自由な考えと、貧乏人でも勉強できる環境があったらしく、そこに多くのすぐれた学者が集まって、独創的で近代的な考え方が育ったという。懐徳堂事業の中心人物の一人であった中井履軒は自然の理と人間の道徳は必ずしも関係づけられるものではないと考えていたと言われ、彼らに支援されて大阪で活動した麻田剛立(あさだ ごうりゅう)は天文の観測からその背景にある自然の原理を考える域に達していた。このような情勢から幕末・明治に西洋から流入する近代科学を受け入れる素地が大阪の地に醸成されていった。
金森順次郎「大阪と自然科学」高等研選書15
大阪帝国大学設立の気運
時は流れて明治初年、一時は首都の候補ともなった大阪に明治政府は官立病院を設置、それが曲折を経て府立大阪医科大学となった。日本の商工業の中心に発展した大阪では、他の主要都市に設けられた病院の多くがそのころまでに帝大附属病院となっている様子に、大阪医科大学を官立に戻して充実を図ろうとするとともに、今後の医学の発展には基礎理化学の知識が不可欠であるという考えから基礎研究を行う理学部を設置して、医学部と合わせた官立綜合大学、すなわち帝国大学を作るべきだという意見がまとまってきた。日本産業の中心を自負する大阪の産業界にも、それまでの日本の発展は欧米の模倣が中心であったが、今後は独自の発想がなければ競争には勝てない、すぐに応用を目指すのではない純粋な基礎研究が必須で、純粋理化学研究を行う理学部がこの地に必要であるという機運が高まってきた。
1924年大阪医大学長に就任した楠本長三郎は事務方トップの西尾幾治同大学幹事の協力を得て帝大設立に邁進することになる。帝大にふさわしい環境を作るため、建物や設備を充実させるとともに、病院の経営を合理化して経済的基盤を強化することを始め、これが教職員の一致した協力によって大きな成功を納めて多額の剰余金蓄積に成功した。1929年大阪府知事に赴任した柴田善三郎は帝大化運動に全面的に賛同し、経済的な支援とともに中央政府に熱心に働きかけた。共鳴した大阪市の関市長も隣接する市有地を無償で府に移管して大学用地とするなど、まさに府市、産業界も一体の熱気あふれる支援体制であったという。
楠本長三郎胸像 大阪大学産業科学研究所(産研)楠本会館前
設立資金の準備と大阪帝国大学の実現
当時は世界的な恐慌の影響で国の経済状態に全く余裕はなく、帝大新設のための予算を国に期待することは到底できなかったので、大阪側は上記の大阪医大蓄積金97万円、塩見理化学研究所(大阪医大出身の実業家塩見政次氏の寄付金100万円を基金として設立された財団法人)の基金から40万円、大阪医大不要敷地売却代金17万円、大阪府積立金から31万円の計185万円の資金を用意して政府に強く働きかけた。これは理学部建物の新築費を含む設立費用と1933-35年の3年間の経常費を含む金額であったという。
これを受けた浜口内閣はついに1931年3月、追加予算の一部に大阪帝大創設予算を含めて衆議院、次いで貴族院に上程した。衆院は通過したものの、特に貴族院での議論が紛糾し、柴田知事、関市長、楠本学長をはじめ運動の中心メンバーが上京して、東京駅上階のステーションホテルの一室に陣取って、会期中も様々なつてを頼って議員への猛烈な働きかけを続けたという。一時は悲観的な空気も漂ったが、最後は投票で多数を得て会期最終の3月25日午後11時35分に議案は可決、大阪帝国大学の設立が正式に認められた。誰かが議場の大時計を遅らせておいたので議決が間に合ったという話も伝わっているが、もちろんその真偽は定かでない。この経過は運動の渦中にあった上記の西尾幾治によって多数の資料とともに「大阪帝国大学創立史」(大阪大学出版会・復刻版)に詳しくまとめられている。
「大阪帝国大学創立史」復刻版 大阪大学出版会
大阪帝国大学創設を語る銘板
中之島にあった古い理学部の玄関ホール壁面に、大阪帝国大学創設の由来を漢文で記した立派な青銅版がはめ込まれていた。そこには運動の中心人物や寄付をした主な組織・団体名とともに、理学部の建物が1934年3月に竣工したことなどが記されていた。多くの人は日頃あまり気にすることなくその前を通って建物に出入りしていたが、「理学部の人間はこの理学部は医学部と大阪の府市民に作ってもらったのだということを時には感謝しなければいかんぞ!」と先輩に言われたこともあった。その銘板は旧理学部の建物がなくなるときに取り外され、現在は吹田の大学本部の1階ロビーに設置されていて誰もが見ることができる。
中之島・理学部玄関壁面にはめ込まれていた大阪帝国大学創設由来の銘文
完成した大阪大学中之島キャンパスの全景(1965年)
手前の土佐堀川にかかる筑前橋のすぐ上が理学部。向こう側・堂島川の田蓑橋の手前が医学部本館。
両学部の間にある3階建ての小さな建物は医学部記念館で、長岡総長は在任中この記念館3階に住んでおられた。
記念館の左(西)側には松下講堂とそれに続く蛋白研が、医学部の川向いに附属病院が見える。その西隣の高い建物が附属病院新館。
理学部の創設
理学部は1学年の学生数60名、数学4講座、物理5講座、化学5講座の体制でスタートすることになったが、その編成にあたって長三郎は同郷(長崎・大村)の先輩である長岡半太郎を頼った。長岡は当時すでに国際的に名を知られた物理学者で、大阪に先立って創立された東北帝大理学部の編成にも当たった経験があった。同郷人であるだけでなく個人的にも親しかった長三郎の頼みを受けた長岡は、この新大学設立に大きく貢献し、最終的には断り切れずに初代総長に就任することになった。長岡から理学部創立委員長を任された東北帝大教授の真島利行は長三郎より数年若いが、旧制一高で同じ時期を過ごしただけでなく、同時期にドイツに留学して親しい付き合いがあったようである。
真島は小竹無二雄、村橋俊介、赤堀四郎などのすぐれた門下生を伴って研究室・家族を挙げて自ら大阪へ乗り込み、初代理学部長を引き受けた。真島の追悼文集の中で長男行雄氏は「父は仙台から商都大阪に移ることにずいぶん悩んだが、来てみると大阪人は基礎的な研究に理解があって、学者を大事にしてくれると言っていた。大阪財界の積極的な支援を得て、新設の理学部を挙げて極めて活発な研究活動を展開することができたからであろう」と述べておられる。
因みに全くの私事であるが、私の父は物理の1期生として(当時はおそらくは無試験で?)理学部に入学し、伊藤順吉、若槻哲雄、緒方惟一、川村肇の皆さんと同期だった。
長岡半太郎胸像
阪大本部前
真島利行胸像
産研前
理学部物理学科1期生 理学部玄関前 1934年頃
理学部の発展
長岡は数学、物理、化学の創設準備委員・高木貞治、八木秀次、真島利行に各学科の具体的な人事は任せたが、全体として、若い候補者を優先的にという方針を示し、また産業界を支える基礎科学の振興がこの大学に期待されていることを考慮して理工の中間的な性格を目指した。また教育よりもむしろ研究を重視したという。どのような人材が選ばれ、それがどういう意味を持っていたか、などについてここで述べることは字数の制限や私の能力不足からできないが、「谷口財団70年の歩み」にそれらの点が明快に述べられている。この出版物は残念ながら誰もが手に取れるものではないが、上述の金森による「大阪と自然科学」(高等研選書)にも同様の視点からの記述がある。
私にもわかる化学に関する話としては、今ではその重要さを誰もが認める「高分子」は当時まだその概念が出始めたころであったのに、理学部設立当時すでにその高分子科学に対する布石が打たれていて、それが理学部高分子学科につながったことが、「大阪大学理学部誕生と高分子化学」と題する蒲池幹治の一文(PLAGENOM、Vol. 9, 2013)に紹介されている。
教授、助教授陣の人選と研究分野の選択がよかったのであろう。また物理や化学の転換期でもあったその時代に、若い研究者が多かったことも幸いして、阪大は発足して間もなく日本の近代科学の中心となったと言われている。初期のメンバーには文化勲章、学士院賞などを受けた者も多く、また多数の総長が理学部から輩出している。
理学部高分子学科1期生 理学部玄関前 学部進学時1961年
おわりに
理学部が実際に発足して以降の実績や変遷は各学科の歴史などに詳しいと思われ、皆さんの目に触れることも多いだろうから私の話はここまでとするが、以上の拙い文章で阪大理学部発足時の大阪の熱気が少しは伝わったであろうか。
上記の高等研選書で金森先生は、長岡総長の回想記にある「理工の間に位する鼠色の学科を目指した」という表現を引きつつ、「白黒両極端が混在して独創的なものを作る」として「ねずみ色の研究」を勧めておられるように思う。現役の終わり間近い頃に先生からこのご本をいただいた私は、ふと「自分の研究はひょっとするとこのねずみ色だったのではないか」と思わずニンマリしたのを覚えているが、それを確かめる前に先生はあっけなく亡くなってしまわれた・・・。
最近届いた永契会誌(化学・高分子の同窓会誌)巻頭言で幹事長の佐藤尚弘教授は、「運営費交付金がますます減る現状では、直接企業化に結びつかない基礎研究中心の理学部・理学研究科にとって学内に流れる金儲けの風潮は逆風である」という意味のことを書いておられる。現在の理学部を取り巻く環境は、私などには想像もできないほど厳しいのかもしれない。それでも現役の皆さん方は、独自の研究領域を見つけて、学内外から感心され評価されるような成果を挙げてくださることを切に願ってエールを送りつつ、老人の勝手な妄言を閉じたい。
(文中敬称略)
筆記者 情報
大阪大学 名誉教授
楠本 正一
KUSUMOTO Shoichi
■経歴
1959
大阪大学理学部卒
1960
大阪市立大学理学部助手
1969-71年
フンボルト財団招聘研究者として ハイデルベルグ・ドイツ癌研究センター留学
1972
大阪大学理学部助手、その後講師、助教授
1988-2004
大阪大学教授
2004-2011
公益財団法人サントリー生命科学財団 生物有機科学研究所所長
■受賞歴
1993
第1回国際免疫薬理学会賞
1999
日本化学会賞
2004
国際エンドトキシン学会 Bang Award
2016
ナカニシ・プライズ(日本化学会・アメリカ化学会)
2017年4月28日 掲載