理学部における高分子化学

理学部における
高分子化学

はじめに

 阪大の大学院理学研究科には他大学の理学研究科にはない高分子科学専攻があります。それは、「産業界が期待する技術開発のための基礎研究」を目的にする大阪帝国大学理学部の建学精神に繋がっています。大阪帝国大学の誘致活動が始まった頃は、既に工業生産されていたゴムやレーヨンが高分子からなることが実証された頃で、合成繊維や合成樹脂の開発が欧米で始まった時代でした。理学部には創立4年後の昭和10年、理学部にいち早く「繊維科学研究所」が附置され、新たな繊維すなわち高分子物質を目指す基礎研究が始まりました。その前後に欧米で企業化された「ポリエチレン」や「ナイロン」は新たな高分子工業の発達を促しました。将来に備え、基礎となる高分子化学の教育・研究さらにはそのための人材の育成が必要になり、昭和34年、日本初となる「高分子学科」が本学と北海道大学の理学部に創設されました。それが平成8年の大学院重点化の際に理学研究科高分子科学専攻になって現在に至っています。北海道大学理学部は大学院重点化の際に高分子学科を改組したので、現在、理学研究科に高分子科学専攻があるのは阪大だけとなっています。
 高分子学科を設立された恩師・村橋俊介先生に折に付け伺ったことを基に、理学部に高分子学科が創られた経緯を紹介致します。

設立前後の自然科学の動向

 大阪帝大の誘致運動が始まった大正13(1924)年前後の自然科学の動向に目を向けると、20世紀の前半で、物理学、化学、医学に大きな発明、発見があり、今日の豊かな物質社会の礎となる学問が始まった時代でした。もう少し具体的にいうと、物理学では量子力学がほぼ完成し原子核の構造に関心が向けられた頃、化学では高分子化合物の存在が実証され、タンパク質への関心も高まり、高分子化学や生化学が新たな研究分野として登場して来た時代でした。ゴム、セルロース、タンパク質が高分子からなることが分かり、学界のみならず産業界から合成高分子への期待が高まっていました。医薬分野に目を向けると、フレミングによってペニシリンが発見され、化学療法に大きな展望が開かれた時代でした。

大阪と高分子工業

 大阪帝国大学の誘致活動が始まった頃の大阪は日本の商工業の中心地であり、特に、天然に存在するセルロースを化学処理して得られるセルロイドやレーヨンは新たな産業を産み出し、従来の紡績業と共に大阪を支える重要な産業でした。欧米の技術に頼らず基礎研究から展開した我が国でのレーヨンの工業化は、研究者や技術者は言うまでもなく、経営者も技術の独力開発とその基礎研究の意義を痛感し、大手資本によるレーヨン会社が相次いで創立されました。
 大阪に、その発展の基礎を学問する総合大学の誘致活動が始まったのは、その頃でした。
 折悪く、関東大震災、昭和金融恐慌、世界金融恐慌がおこり、国家予算での帝国大学の誘致は困難でしたが、関係者のご努力で、昭和6(1931)年長岡半太郎先生を総長とする大阪帝国大学の設置が決定されました。その経緯は、楠本正一先生の「理学部が出来た頃—伝え聞き」 に詳しく書かれているので参照して下さい。長岡総長は、漆の研究で名声を博しておられた真島利行東北帝国大学教授を設立委員に迎え、化学科の立ち上げを進められました。

長岡半太郎初代総長

真島利行先生と高分子化学

 真島先生は東大助教授に就任後、1907(明治40)年から1911年までドイツに留学されていますが、最初に師事したのはゴムの研究を行っていたハリエス教授(キール大学)でした。帰国後すぐに東北帝国大学理学部化学科有機化学講座の初代教授に就任し、漆の成分の構造決定に始まり色々な天然物質の構造決定ですぐれた研究成果を挙げられましたが、東北大時代には高分子物質を対象とした研究は殆ど行っておられません。しかし、学生時代から真島先生の薫陶を受けられた村橋俊介先生によると、シュタウディンガー教授(1953年ノーベル化学賞受賞)が1920年代に多くの反論を乗り越えて、高分子化合物の存在を、有機化学的手法を駆使して実証して行く過程には強い関心を持っておられたそうです。若い頃、ゴムの研究をしていたハリエス教授の下で研鑽を積まれた真島先生には、ゴムやセルロースが高分子からなることの実証は感激と共に、新たな化学分野として高分子化学がはじまることを予測されたと思います。先生は大阪という場所も考慮し、高分子物質に理解を示す若い仁田勇先生を設立委員に加え、さらなる人選に当たられました。仁田先生は、東大理学部卒業後、理化学研究所で木綿、絹など繊維状物質のX線構造解析を行われた西川正治博士に師事し、有機化合物のX線構造解析で優れた研究をされていました。その仁田博士を物理化学の教授に迎え、学際的研究に特色をもつ化学科を目指されました。チェコスロバキアとアメリカで酵素化学やタンパク質化学を学んで帰国した赤堀四郎博士、ヨーロッパで最先端のコロイド化学を学んで来た佐多直康博士を助教授に選ばれました。仁田先生は5年以上ドイツで高分子の研究を体験された呉祐吉博士を講師にし、大阪らしい特色ある理学部化学科を創られました。

真島利行初代理学部長


真島先生の片腕として化学科の方向を定められた仁田 勇教授

繊維科学研究所

 新たに誕生した大阪帝国大学理学部の建学精神への産官学の期待は大きく、特に繊維産業の中心地である大阪での繊維の基となる高分子の理学部的基礎研究に大きな期待が寄せられました。桑田権平氏(日本スピンドル社長)の高額な寄付金はその証です。それに加えて三井報恩会、東洋紡績、王子製紙、住友本社さらには有志からの寄付金が集まり、昭和10年、楠本長三郎総長を理事長とし、主任を呉講師とする繊維科学研究所が設立されました。研究所は3階建ての建物が理学部の裏側に建てられ、各階とも理学部の建物と廊下で繋がっていました。研究所では呉先生のもと、岡小天(後に東京都立大学教授、国立循環器センター研究所長を歴任)、谷久也(後に阪大教授)、上中三男二(後に阪大助教授を経て住友ベークライト)、柿木二郎(後に大阪市大教授)、小寺明(後に東京教育大教授)、久保輝一郎(後に東工大教授)など有能な研究員が加わり、新たな繊維構成可能な物質の探索、繊維構成基礎物質の分子形態、繊維構成物質内の結晶の配列などX線や電子線を用いた理学的研究が展開されました。具体的には、羊毛、天然絹糸あるいは人造絹糸など繊維の結晶構造や物性の他、高分子化合物を含む種々の化合物のX線解析、セロトリオースの合成、N-カルボン酸無水物からのポリペプチドの合成など高分子化学の基礎となる研究も展開されました。岡先生は東大理学部物理学科で助手をされていた学士でしたが、理学部の講師(1935年に助教授)として阪大へ赴任されました。岡先生は化学科の仁田教授、呉先生に高分子物理の研究が重要になることを示唆され、本研究所の研究員も併任され、高分子物理学の研究を始められました。岡学士は、学位を得て、昭和14(1939)年、小林理学研究所に移り、高分子物理学のリーダーとして高分子物理の発展に貢献されました。わが国の高分子物理学の研究は阪大から始まっています。
 産学が協同して基礎研究を行う研究所は日本では初めての試みであり、広い視野に立った高分子科学(化学、物理、工学)の基礎研究が展開されました。しかし、戦後、呉教授は軍事産業への協力が問われて阪大を退職されました。繊維科学研究所は理学部に附置していたものの、財団法人であったので経済的に苦しく、研究員も激減しました。しかし、仁田教授、赤堀教授をはじめとする理学部化学科教授および工学部応用化学科教授の協力で、その後も研究所が維持されました。昭和25年に出版された繊維科学研究所年報第五号には、合成高分子のX線による結晶構造の研究、吸湿性など物性に踏み込んだ研究、タンパク質類似物質に関する研究、重合反応の速度論的研究、スチレンの重合に対する電場の影響など当時としては極めて先端的研究成果が報告されています。繊維科学研究所は、昭和43(1968)年、時代の変化に鑑み、高分子研究所に改称し、平成22(2010)年、創立75周年を迎えました。

高分子の研究を牽引された呉祐吉教授


繊維研のセミナーの風景

X線研究室

化学科における高分子研究

 昭和14(1939)年に赤堀助教授は真島教授の後を継承し第一講座を、昭和16(1941)年には呉先生が第六講座を、昭和17(1942)年には佐多助教授が第七講座を担当されました。昭和19(1944)年には化学科は9講座に膨張し、第九講座は堤繁教授が担当する重合化学講座(戦後工学部へ移管)が設置されました。化学科の9講座中4講座が高分子化学に関する講座であり、昭和10年に繊維研究所が設置されていることを考慮すると、理学部で、いち早く、高分子化学の教育・研究がなされていたことを示しています。
 昭和14年、真島先生を所長とする産業科学研究所(以後、産研と略す)が設立されました。真島所長は高分子合成の研究部門を開設し、理学部の村橋講師を助教授に任命して、高分子合成に関する研究を開始されました。昭和16年から独自の研究室を持たれた村橋先生はナイロン合成の新たな手法を開発する他、有機合成の技術を活かした高分子合成を遂行されました。呉先生は、谷先生と一緒に、産研でも実用化に繋がる研究も遂行され、初めて国産のポリエチレンの合成に成功されるなど、国産産業の発展に尽くされました。呉先生は阪大理学部に止まらず、日本合成繊維研究会の専任理事として、軍事下における国産産業の発展に獅子奮迅の活躍をされました。その活躍は戦時下における軍への技術協力と誤解され、学者を審査した進駐軍には好ましい教育者とは思えなかったのかも知れません。詳細は公表されていませんが、呉先生は大阪大学を退職されました。そのため、第六講座(高分子化学講座)は、戦後しばらく第一講座の赤堀教授が兼任されていましたが、昭和22(1947)年に理学部長に選ばれたので、23年からはその講座を産研で高分子合成研究を行っておられた村橋先生が兼任され、昭和27年からは専任教授になられました。

高分子学科

 村橋先生は、第六講座の専任教授になるにあたり、高分子化学を学問として発展させるためには、合成、物性、構造を含めた総合的な研究・教育体制が必要と考え、高分子化学科の設置を教授会に提案されました。正田建次郎総長、仁田および赤堀両理学部長の尽力で文部省に申請され、同時期に申請されていた北海道大学理学部と共に昭和34(1959)年日本初の「高分子学科」として創設されました。学科は高分子合成化学講座(村橋俊介教授)、高分子構造化学講座(谷久也教授)、高分子溶液論講座(京都大学から赴任された藤田博教授)、高分子固体構造論講座(当分、村橋教授兼任後田所宏行教授)、高分子物理学講座(佐多直康教授)の5講座に、蛋白質研究所の蛋白質溶液部門(伊勢村寿三教授)および蛋白質物理構造部門(角戸正夫教授)、産研の有機金属化合物部門(萩原信衛教授)の3部門が協力講座として加わり、発足しました。少し遅れて産研の放射線高分子部門(北海道大学から赴任した林晃一郎教授)も加わり、広い視野に立った高分子の研究・教育が行われました。開設以来今年で59年が経過しました。その間、平成8年の大学院重点化の際に理学研究科の高分子科学専攻に移行し、3大講座、7研究室となり、蛋白質研究所の情報高分子大講座の3研究室及び安全衛生管理部の1研究室とが協力研究室として加わり、大学院で高分子科学の研究・教育がなされています。現在、四代または五代目の教授となり、多様化した高分子の本質に迫る基礎研究が総合的に展開されています。平成8(1996)年大学院重点化前の高分子学科の卒業生は700名を越え、その7割以上が大学院へ進学しました。大学院重点化後の博士前期課程修了者は525名に達しています。卒業生の中にはノーベル賞候補となっている人もあり、世界の学界や産業界で活躍しています。

参考資料
大阪大学五十年通史 1985年
金森順次郎「大阪と自然科学」(高等研選書15)2001年 
鎌谷親善「大阪大学紀要」4巻、25-67ページ、1987年
内山龍雄「適塾」No. 15、19-26ページ、1982年
高分子学会「日本の高分子科学技術史(補訂版)」2005年
村橋俊介 「わが国における高分子合成20年のあゆみ」高分子14巻、810-817ページ、1965年
呉 祐吉編集「繊維科学研究所設立記念講演録」1938年
久保田尚志「素描」2009年

高分子学科を設置された村橋俊介教授

筆記者 情報

大阪大学 名誉教授

蒲池 幹治

KAMACHI Mikiharu

■経歴

1959

理学部化学科卒業

1961

理学研究科無機・物理化学専攻修了

1961−1964

東洋レーヨン中央研究所、基礎研究所

1964

理学部助手(村橋研究室)

1969−1971

米国留学(アイオワ州立大学)

1972

助教授

1988−1998

教授

1996−1998

高分子学会会長

1998

名誉教授

1998−2007

福井工業大学特任教授

■受賞歴

高分子学会賞、高分子学会功績賞、高分子学会名誉会員

2018年1月29日 掲載