理学部における大学院重点化の頃

理学部における
大学院重点化の頃

はじめに

 1995年に大阪大学のトップを切って理学部と医学部が重点化されました。翌年からは重点化に際して教官の資格審査は廃止になりましたが、初年度では、資格審査のための準備は大変を極めました。大学院の重点化は教育研究水準の高度化が目標であったとはいえ、「国立大学の法人化」に至る大学制度変革の一環であったことは次第に明らかになって来たと思います。「大学院の重点化」の前には、「大学設置基準の大綱化」がありましたから、これら3つの変革で、戦後の大学制度が大幅に変貌したように思われます。大阪大学の理学部では、この変革をどのように乗り切ったかを記しておきたいと思います。
 改革の現場に居合わせた者として、理学部の輝かしい伝統が真に受け継がれるものであったかどうか常に気にかかる事柄であります。これら3つの改革のうち初めの2つは、ちょうど理学部出身の金森順次郎総長の時代でもありました。金森先生は1970年代の大阪大学の大学紛争の折にもご苦労をされたと聞いています。
 以下、個人的な文章ではありますが、客観体で述べさせていただきます。思い違いがありましたら、ご修正とご容赦をお願いします。また、文部科学省は2001年の省庁再編以前は文部省であり、大学の教員は国家公務員として教官と呼ばれておりました。そのため、文部省と教官という呼称を使わせていただきます。

金森順次郎13代大阪大学総長(1991年8月就任)

大学設置基準の大綱化

 戦後の国立大学制度では、大学1、2年生は教養部において、一般教育科目(基礎教育)と外国語教育科目を履修し、3、4年生で専門教育科目を履修することになっていた。それぞれの教育科目では大学が文部省から認可された内容の教育を実施していた。しかし、大学の諸事情により、教養部教育の期間は短縮されたり、専門教育が1、2年次に下りてきたりしていた。文部省は1990年代に入って、一般教育科目と専門教育科目の区別を廃止し、大学が自らの理念と目標に基づいて独自の教育科目を設定できるようにした。これが「大学設置基準の大綱化」である。当初から、これは教養部の廃止を伴うことが明確であった。しかし、国立大学法人化に至る最初の措置であると見抜くことができた大学人はほとんどいなかったのではないかと思われる。
 教養部を廃止するとしても、基礎教育の重要性は誰もが認めるところで、どのような内容でどの部局がそれを担当するのかが大問題であった。文部省は教養部を衣替えした存続は認めなかったので、大阪大学は専任教官を置かない「全学共通教育機構」(全学教育推進機構の前身)というセンターを設置し、基礎教育を全学の協力の下で実施することとした。従来の教養科目が体裁を一新するとともに、全学協力科目も新設された。「基礎セミナー」という科目の新設はその措置の一例である。
 理学部では、専門科目の見直しも行ったが、多くの学部で同様の見直しがあったと思われる。すなわち、学部は入学から卒業まで教育を主体的に行うこととなったのである。
 教養部に属していた教官の受け入れ先が次の大問題で、理系の教官は、一部の例外を除いて、理学部に振り替えることになった。大学の中枢でどのような議論がなされたか詳らかではないが、理学部では、教養部理系教官グループの分属による細分化は望ましくないとして、「理系教官の一括受け入れ」とその代替措置としての「理学部における教養教育負担の平等化」を主張した。理学部の主張が通り、結果としてポストが増えたことは、次の「大学院重点化」の際に、研究領域の拡大と充実に大きな影響があった。しかし、全学では教官ポスト受け入れの要望が強く、理学部への一括配属に対しては反発もあった。

大学院重点化

 教育研究水準の向上が目標とはいえ、その功罪は未だに見直されていない。重点化前には、1講座1教授が本来の制度であり、講座費が教育研究の資金であった。重点化に伴って講座制は、研究領域別の複数の教授からなる「大講座」に変わった。教官の身分は大学院所属になり、幾分の給与増加もあった。大学院学生定員は専攻に属する教官数によって積算されて、教官数が増えた理学研究科では大幅な増加があった。修士課程定員のみならず、博士課程定員の大幅増加も伴ったので、現在言われる「ポスドク問題」と「博士号取得者の就職難」を引き起こす一因となっている。問題は定員増だけでなく、講座費が、次第に教育目的に絞られるようになり、研究費用は競争的資金で外部から獲得する形に改まった。これは「基礎研究の長期的遂行」を難しくしている。これら新規改革に伴って生じた問題には解決の糸口さえ明らかでないものもあると思われる。理学部では伝統的に、少数精鋭主義と研究領域の拡大のための組織拡大の二つの考え方が底流としてあったように感じるが、どちらを優先するべきか時代の変化に合わせて考えて行く必要があろう。理学研究科では専攻間でもよく議論をして頂かねばならないと思う。

国立大学法人化

 2004年に実施されて、まだ10数年が経過したばかりである。2000年前後に始まった制度化への議論は、大学の水準を欧米並みに高度化して世界一流の大学とする文部省側の考えと、大学運営と必要経費の工面を(一部であるとは言え)自己裁量化される国立大学側の考えには大きな乖離と対立があった。人件費などの削減ですでに大学はやり繰りに苦しんで、経済的疲弊が進んでいたからである。もう昔の大学の姿には戻らないと思うが、若年人口が減少していく中で、どうして教育研究水準を維持向上できるのであろうか。
 大阪大学の制度設計に携わった身としては、法人化によって少しでも環境が改善し、教育研究成果が挙がったという話を聞きたいものである。個人的には、もう一度、昔の大学に存在した自由で活発な教育研究環境が取り戻せれば一番よいと思う。
 では、どのようにして? 提言となるべき考えには乏しいが、一つのキーワードは対話と自律性だと考えられる。矛盾する考えに見えるが、一人の教員がなし得ることは自分で決めなければならないとしても、少しでも他人と話してお互いを理解し、支え合うことが大切であると信じるからである。大阪大学の発足時でも多分そうであったように思う。

寄稿者による文書

参考資料:Handai NEWS Letter No.31
(「法人化から2年ー国立大学の教育、研究はどう変わったか」寄稿者インタビュー記事)

筆記者 情報

大阪大学 名誉教授

宮西 正宜

MIYANISHI Masayoshi

■経歴

1963

京都大学理学部 卒業

1965

同理学研究科 修士課程修了

1965

京都大学理学部 助手

1967

京都大学理学部 講師

1973

大阪大学理学部 助教授

1984-2003

大阪大学理学部及び理学研究科 教授

2000-2003

大阪大学 副学長

2003-2009

関西学院大学理工学部 教授

2017年11月21日 掲載